「君が北条時宗だ!2度目の元寇に備えよう。」
   

〈知識先行の社会科学習から 考える社会科学習へ



授業者 一柳 丞
社会科部


本校の社会科の学習では5年生の前期に産業を終え、後期より歴史学習に入ります(中学受験を視野に入れているため、前倒しのカリキュラムを採用しており、6年生の12月までにすべての単元を学習します)。小学校の教科書の範囲を大幅に超え、多くの歴史上の人物や事象、文化、歴史背景までが学習内容となります。学習内容が多いため、どうしても知識先行の「教え込み」の授業となり、子どもたちがお互いに考えを「深めあう」授業とはなりえません。そこで今回の研究授業では、鎌倉時代の「元寇(モンゴル襲来)」をテーマにとり、子どもたちの話し合いを通して歴史を見つめ「深め合う」授業を目指しました。

まずは前時の復習から。
鎌倉時代、モンゴルは遊牧民族を束ね大きな帝国を築いていきました。その支配は西アジアから中国、そして朝鮮半島までおよび、ついには日本まで支配下にいれようと勢力をのばしてきました。元(モンゴル帝国)は1274年、日本に攻め込みます。御家人(武士)たちは幕府や日本を守るため必死に戦いますが、戦術の違いに苦しみ、苦戦を強いられました。しかし突如、大嵐が吹き荒れ元軍の船は次々と沈んでいき、退却を余儀なくされるのでした(この大嵐は「神風」と呼ばれ、太平洋戦争の神風特攻隊のもとになった言葉でもあります)。1度目の元の攻撃(元寇)と元の戦術について前時にじっくりと学習しました。

〈日本軍と元軍の戦術の違い〉
日本軍は一騎討ちが主流であるのに対し、元軍は集団戦法を使う。
日本軍は大きな弓を使うのに対し、元軍は連射が可能な短い弓を使い、先端には毒が塗ってある。
元軍は見たこともない「てつはう」という爆発する玉を使って攻撃してくる。

日本の戦では「やぁやぁ、我こそは・・・」と自分の名前や身分や出身地などを大きな声でお互いが名乗りをあげてから一騎打ちをするのが普通でした。しかし元軍にとっては「名乗りをあげる」などという風習はありません。日本軍が「やぁやぁ・・・」と言っているうちに、「てつはう」がドカンと飛んでくるわけです。これでは苦戦するのも当たり前。モンゴル人たちは、そんな日本人をどう思ったのでしょうか。

〈北条時宗になったつもりで、2度目の元の侵略に対して作戦を考える〉
当時の執権北条時宗は、一度目の元寇の後、再び訪れた元の使者を切り殺してしまいます。これではもう一度、元が襲ってくるのは当たり前。そこでクラスのみんなには、元の戦術をふまえて、どんな対策を練ることができるの
かを考えてもらいました。

社会の学習では、歴史用語や人物名、歴史の流れを覚えることにどうしても比重が多くなってしまいがちですが、時にはこのようにみんなで知恵や考えを出し合うことで、歴史を主体的にとらえることができるようにもなります。
さてさて、子どもたちはどんな作戦を考えたことでしょう・・・。

子どもたちから出た作戦は・・・
・5人がかりの集団戦法!
 日本も一騎打ちをやめるわけですね。なるほど、敵から学ぶのもひとつです。
・うんと高い堤防を博多湾に作る。
 実際に元寇に備えた石塁が現在の博多湾に残っています。
・他国(インドなど)と同盟を結ぶ!
 確かにインドは元の支配下にはなっていませんね。いいところに気づきましたね。
・「てつはう」を作る!
 一度目の元寇で、元軍が使ったてつはうの残骸が残っているはず。敵の武器を真似することも兵法のひとつかも。よく考えました。
・神頼み・・・
 もう一度「神風」が来ることを祈るのですか・・・。これを作戦というのかどうかはわかりませんが、史実ではなんと「神風」がもう一度吹いて、14万の元軍を退けた、とあります。子どもたちの発表は意外とあなどれないものです。


子どもたちからたくさんの作戦が発表されました。事実、御家人たちは国を守るため全力で戦い、神風の力も借りて、元軍をもう一度追い返すことができたのです。しかし、鎌倉幕府はこの後、時を待たずして滅亡していくこととなります。
授業の最後に、「どうして鎌倉幕府は滅亡していくことになったのか?」を考えました。
みんなが考えた作戦ですが、どの作戦も確かに効果がありそうです。しかし、大きな作戦を実行したり、備えを強化するということは、それだけ費用もかかります。大きな石塁を作るには巨額のお金がかかります。新しい武器を作るにもその準備には時間も労力もかかります。
当時の御家人(武士)たちは、こういった戦の準備をすべて自分たちの自己負担でしていたのです。そしてそのために借金をする武士も多かったそうです。
鎌倉幕府の基盤は「御恩と奉公」。将軍を守るためにがんばれば、それに見合った褒美(土地や地位)が約束されていました。しかしこの元寇は、相手を追い払っただけで、敵の土地を奪ったわけではありません。鎌倉幕府は、元軍と奮戦した御家人たちに土地という褒美を与えることができなかったのです。その結果幕府は信頼を失い、滅亡という道をたどるのでした。
その事を子どもたちと確認して、授業の締めくくりとしました。

歴史を学ぶということは、戦争の歴史を知ることでもあります。戦力を整えれば、それだけの費用もかかります。平和と思える現在の日本も、毎年巨額の防衛費が使われています。アメリカは毎年60兆円以上の国防費を計上しています。それが自国の財政を逼迫させているのは事実ですが、それを無くすには厳しい現状があります。
過ちをくり返さないために学ぶのが歴史学習でもありますが、「戦争と平和」という視点から見れば、果たして世界は本当に進歩しているのでしょうか。
そんな疑問が子どもたちの中に芽生えれば・・・とも思うのでした。

                      《NDトピックス》
                   「日本流の戦と源義経」


先ほど紹介した日本流の戦「一騎討ち」。当時の日本はこういった儀式のような風習にのっとった戦い方をしていました。
日本の歴史において、有名な武将はたくさんいますが、その中で源義経を知らない人はいないでしょう。源平の戦いの末、壇ノ浦で平氏を滅ぼした最強の武将と言われています。彼をめぐるさまざまな伝説がありますが、義経の戦い方は当時の「日本流」の戦い方とは違っていたようです。
嵐の中、敵軍が油断している時に攻撃をしかけたり、切り立った崖の上から奇襲攻撃をしかけたり、壇ノ浦では船の漕ぎ手を狙う(当時の日本流の戦では御法度)という戦術を使い、平氏を苦しめました。そして元軍がそうであったように一騎討ちではなく「集団戦法」をも、源平の戦いで使っていたようです。義経の伝説のひとつに、兄の頼朝に追われ、中国に渡ってフビライ・ハンになったというのがありますが、この集団戦法を使っていたからというのが、その裏付けなのでしょう。
卑怯と言われればそれまでですが、現代の戦争における戦術を見れば、堂々と正攻法で戦っている部隊などありません。ゲリラ作戦や待ち伏せ攻撃は当たり前。いかに敵の虚を突くかが重要視されます(戦争を容認することはできませんが)。
結果として平氏を滅ぼした源義経は戦において、時代の先を見る力があったからこそ、戦の天才として今なお語り継がれているのでしょう。