祈りの心を育む聖歌指導

 

 本校の音楽の授業では、通常の音楽の教科書の他に本校編纂の「聖歌集」を用いて授業を行います。カトリックの宗教行事のなかでも、5月の「聖母月」のミサ(低学年は「祈りの集い」)と11月の「死者のためのミサ」、12月のクリスマス会(クリスマスのミサは、冬休み期間中になるので学校では行われません。)は、講堂に神父様をお招きして行われますが、ここでは、やはり「聖歌」が主役となります。一つのミサや祈りの集いに数曲の聖歌を歌うので、音楽の授業では自ずと聖歌の練習にかなりの時間を費やすことになりますが、実は、この聖歌の練習こそが音楽の基礎作り、歌声作りに、そして祈りの心を育むことにとても大切な役割を果たしているのです。
聖母月の御ミサ

            

 

 

聖歌を用いた歌唱指導

 

 どんな歌でも歌詞の意味や内容、その背景や情景を想像しながら「思いをもって歌い、表現する。」ということが大切です。その意味において、ほとんどの聖歌は、歌う者と聴く者に具体的なメッセージ性(神様への感謝、賛美、祈り・・・等々)と明確な方向性(天=神様に向かって歌う)をわかりやすく与えてくれるので、歌詞の内容に応じたフレーズの作り方や、そのフレーズに応じた声のコントロールを学ぶにはとても分かりやすい歌であるということが言えます。

よく、「聖歌を歌うことは10倍祈ることである。」などと言われたりします。しかし、聖歌を指導する上で本当に「10倍祈ること・・・」になるためには、聖歌の目的と役割について十分に理解し、歌詞の内容について理解を深めることが何より大切です。その上で、音楽的に優れた簡潔で美しい楽曲が多い聖歌を、歌唱指導の素材として見た場合、以下のような大きなメリットがあります。

 

①メッセージ性や方向性という分かりやすさを活かした音楽作り、声作りができる。

 

②純粋に音楽作品として優れた楽曲に出会うことができ、より高い表現力を身に付けることができる。

 

③神様への感謝や賛美、願いといった「祈りの心を持って歌う」ように指導することができる。

 

④私たちに音楽というすばらしい贈物を与えてくださった神様に感謝して、音楽をより美しく表現して天にお返ししようという、音楽に対して誠実に向き合う姿勢の大切さを教えることができる。

 


1年生授業風景

2年生授業風景

 

 

 低学年児童の歌唱指導では、「神様に感謝する歌ですよ。」とか、「神様をたたえる歌ですよ。」と前置きしたり、「お祈りする気持ちで歌いましょう。」と付け加えたりすると、必要以上に大声で歌うことも自然となくなり、更に「神様やマリア様に向かってきれいな声で歌いましょう!」というと、本当にきれいな声になってきます。(不思議ですが・・・) また、「誰が、誰に、何をお祈りしているの?」と尋ねると、自分の気持ちを表そうとして、言葉やフレーズに強弱の変化を自発的につけて歌うこともあります。

 高学年においては、同様の問いかけで聖歌を歌うことの目的意識をはっきりさせ、より美しい声と響きで歌おう、はっきりとした言葉で歌おうと常に意識させることによって、声の出し方や歌うことそのものに対する姿勢が、ずい分と積極的なものへと変化してきました。

 聖歌の歌唱指導では、とくに歌詞の言葉のひとつひとつを大切にし、明瞭な発音ではっきりと歌うことができるように、言葉の発音にも注意しています。聖歌のなかには難しい文語体の歌詞をもつ聖歌もあり、子どもたちにとっては、まるで外国語の歌詞を歌っているのと同じような状態になってしまうこともあります。その場合、できるだけ言葉の意味や歌詞の内容をやさしく具体的に説明しながら、子どもたちにとって聖歌がより身近なものとなるように心がけています。

 

 

 

授業紹介・・・ 6年生の授業から、聖歌指導の実際

 

今回は6年生の授業での聖歌指導をご紹介します。

6年生では、聖歌『ガリラヤの風かおる丘で』を用いて二部合唱の練習に取り組みました。

この曲は、聖歌集には斉唱(ユニゾン・・・同じ一つの旋律をみんなで歌う)で書かれてあるのですが、ゆっくりとしたテンポとともに旋律線の起伏がなだらかで、声域も広くないということもあり、ともすると平板で単調な歌い方になってしまうことがあります。そこで、楽曲の奥行きと旋律とハーモニーの一体感とをより深く感じてもらい、表現の幅を広げるために、もう一つの声部(パート)を加えて二部合唱で歌うことにしました。

 

聖歌「ガリラヤの風かおる丘で」の歌詞

 

1番 ガリラヤの風かおる丘で 人々に話された

  恵みのみ言葉を わたしにも聞かせてください

 

2番 嵐の日 波たける湖(うみ)で弟子たちをさとされた

  力のみ言葉を わたしにも聞かせてください

 

3番 ゴルゴタの十字架の上で 罪びとを招かれた

救いのみ言葉を わたしにも聞かせてください

 

4番 夕暮れのエマオへの道で 弟子たちに告げられた

 命のみ言葉を わたしにも聞かせてください

 

6年生授業風景

さて、4番まであるこの「ガリラヤ・・・」の歌詞は、イエス様が人びとや弟子たちに語り、教えさとされたみ言葉を、私にも教えてくださいと願う歌です。わかりやすく短い歌詞ながらも、聖書に書かれてある箇所と具体的に符合するものです。それぞれどのような情景や内容が歌われているのか、具体的な情景や表現のイメージをもつことは、一度でもその聖書の箇所を読んだことがなければ、なかなか難しいかも知れません。聖歌ではない普通の歌であれば、その歌詞を自由に解釈し、思い通りに表現して欲しいところですが、聖歌の歌詞は、やはり聖書にきちんと書かれてある内容なので、自由な想像による自分勝手な解釈や表現ではなく、表現の根拠の具体性や正確さが求められます。

そこで、今回の授業では、「歌詞の意味や内容を理解し、情景を想像しながら歌う」ということへの具体的な助けとなるよう、簡潔で分かりやすい記述であるルカによる福音書からそれぞれ以下の四箇所を示し、少し解説を加えてみることにしました。

 

1番:第4章14節~「ガリラヤ湖畔で宣教をはじめられた話」

2番:第8章22節~「ガリラヤ湖で嵐を静め、弟子たちに教えを語られた話」

 3番:第2339節~「イエス様とともに十字架にかけられた罪びとが回心した話」

4番:第2413節~「復活されたイエス様が、エマオという村に向かう弟子たちと共に歩まれて言葉を交わされ、最後に弟子たちがイエス様の教えを心から受け容れた話」

 

すると、歌詞の言葉の意味合いだけではなく、聖書の具体的な記述をもとに歌詞の背景をも知り得たことから、1番から4番まで、自発的にそれぞれの歌詞の内容に合わせた異なる表現となり、最後の節の「(イエスさまのみ言葉を)わたしにも聞かせてください・・・」という箇所が、内に秘めた静かな祈りの言葉として伝わってきました。それは、子どもたちがこの聖歌を歌い終わったあとの、楽曲の雰囲気を壊さないようにしようとする態度の変化にもつながったように思います。

 

具体的な強弱やテンポの変化の点では、

 

1番 「ガリラヤの風かおる丘で・・・」では、神様から力を得てガリラヤの地で宣教活動を始めら れたイエス様の姿を思い、明るく穏やかに歌う。

2番 「嵐の日 波たける湖(うみ)で・・・」では、信仰が揺らぐ弟子たちを勇気づけるイエス様の言葉を意識してやや強めに歌う。

3番 「ゴルゴタの十字架の上で・・・」では,イエス様の処刑の場であるゴルゴタの丘をイメージしながら、厳粛な気持ちとともに少し緊張感をもってやや小さめに歌う。

4番 「夕暮れのエマオへの道で・・・」では、「夕暮れ」という言葉に留意し、不安を抱えてエマオに向かう二人の弟子たちの気持ちと、彼らに最後まで寄り添いながら目を開かせようと言葉をかけるイエス様の弟子たちに対する深い愛を思い、落ち着きのある声とテンポで静かに歌う。

などといった、演奏上の工夫が考えられます。実際の授業での演奏では、二回、三回と回数を重ねるうちに上記のような表現が自発的に芽生えながら自然と収斂されていきました。 

 歌詞の内容がわかり、音楽的に表現できるようになってくると、自然と少し小さめに歌って自分の周りの声を注意して聴く態度が見られたり、少し強く歌うところに積極的な表現がみられたりしました。     

 聖歌の二部合唱の練習を通して、各々のクラス全体で合唱を楽しむ雰囲気が醸し出され、お互いにハーモニーを確かめ合い、楽しみながら、みんな一緒にひとつの方向に表現しようという気持ちが芽生え始めたことは、カトリック校ならではのこの聖歌を歌唱指導の素材としたことの大きな成果でした。

 

 

NDトピックス・・・「聖歌と讃美歌の違いについて」

 

 聖歌と讃美歌というと、「同じものではないの?」と思われる方が多いかと思います。

聖歌を、キリスト教の典礼や集会において歌われる宗教歌全般を意味する言葉とすれば、広い意味で讃美歌も聖歌に含まれますが、一般的にはカトリックでは「聖歌」、プロテスタントでは「讃美歌」というように使い分けられています。ちなみに、「讃美歌」というときには、「神を賛美する」の「賛」とは違う「讃」の字を用いることが多いようです。また、プロテスタントの讃美歌集に「聖歌集」というタイトルが付けられていることもあり、名称の点で厳密に明確な区別があるわけではありません。

しかし、両者の間にはハーモニーやメロディー、形式などの音楽的特徴からみた面と、それぞれの成立過程を歴史的な面から捉えた場合では大きな違いがあります。

例えば、カトリックの聖歌に特徴的なものでは、答唱詩篇やアレルヤ唱、詠唱と呼ばれる、ある一定の固有文をひとつの節回しのなかで語るように歌う曲があります。そして、すぐに名前が挙げられるのが、6世紀後半のローマ教皇グレゴリウスⅠ世によって、それまでの聖歌が編纂されたものと言われている、有名な「グレゴリオ聖歌」でしょう。この「グレゴリオ聖歌」は、ラテン語の歌詞でハーモニーを付けず無伴奏、単旋律で歌われるのが特徴です。

20世紀半ば過ぎまで、カトリック教会の典礼は、司祭の説教以外はほとんどラテン語で行われていました。グレゴリオ聖歌も中世、あるいはそれ以前からヨーロッパ各地の修道院において一般民衆の日常語ではないラテン語で歌い継がれてきました。ところが、グレゴリオ聖歌は、歌詞がラテン語であることに加え、非常に独特な節回しだったり、楽譜の記譜法(音符の書き方)が中世のままの独特なものであったりしたために、誰もがすぐに歌えるというものではありませんでした。

1962年 ~ 1965年に開かれた「第2バチカン公会議」において、ようやく各国それぞれの言語による典礼が認められました。グレゴリオ聖歌を歌うことも義務ではなくなったので、カトリックの聖歌がいろいろな国の言語と音楽で創られ、新しい聖歌が歌われるようになったのです。

さて、一方のプロテスタントの「讃美歌」のルーツは、16世紀はじめの宗教改革の創始者としてその名を知られるルターにさかのぼります。宗教改革の結果、ラテン語の聖書はルターによってドイツ語に翻訳され、それをもとにドイツ語の歌詞による一般民衆が歌いやすい新しい聖歌が生まれました。

それは、「コラール(讃美歌)」と呼ばれ、後年にはあの大バッハによって「教会カンタータ」という最高の芸術的完成形に到達します。今日歌われているプロテスタントの讃美歌の多くは、ヨーロッパ諸国やアメリカなどの古今の美しいメロディーを集めた、シンプルで歌いやすい曲集となっており、「四声体」で書かれているのが基本です。

このように、聖歌と讃美歌では、同じ神様をたたえる歌でも、実際に歌われる際の音楽的特徴やその成立の歴史的背景に大きな違いがあるのです。聖歌も讃美歌も同じキリスト教の神様をたたえ、感謝する歌です。それは、いつも私たちに人として大切なことを気付かせ、思い出させてくれる歌、そして私たちの内に光をともし、生きる勇気や喜びを与えてくれる歌でもあります。私たちは、聖歌をいつも大切に、そしていつも美しく歌いたいものです。