今二年生は、生活科で「地域プロジェクト」に取り組んでいます。ノートルダム学院小学校を中心とする校区の探検とその校区にあるお店屋さん訪問をして、自分達の身近にある店や施設が私たちの生活とどんな関わりがあるかを調べます。

 私たちのクラスは、植物園を訪問することになりました。

国語の教科書に「動物園のじゅうい」という教材があるのですが、子どもたちが

「動物園に獣医さんがいるんだったら、植物園にもお医者さんがいるんじゃないの。」

と、言い出したので、植物園の方にたずねてみると・・・

本当にいらっしゃったのです!

それが、「樹木医さん」です。

「樹木医さん」という言葉にも何か謎がありそうで、早速クラスで植物園を訪ねました。

すると、なんとその「樹木医さん」が植物園の技術課の先生と一緒に、私たちを案内してくださいました。

園内にある、もうすぐ倒れてしまいそうな木、傷を負ったせいで木の表面がかさぶたのように盛り上がった木、落とした葉っぱが甘い香りを出す「桂」という木などを紹介してもらいながら、驚いたことがあります。

何と「樹木医さん」は、朝、自転車で植物園を見回ると、元気のない木が一目で分かるとおっしゃるのです。まるでお医者さんが患者さんを問診して病気や調子を言い当てるような感じでしょうか。

 しかし、植物園の木や植物は人間と違いものは言いません。話しかけても返事はしてくれません。

そこには何か大事なことが隠されていて、まるで、見えないものが見えるような感じを受けました。「本質が見える・見えないというのは、見えるものが見える世界の話ではない。見えないものが見えるかという世界の話です。」と聞いたことがあります。そのことを思い出しました。

どうも「樹木医さん」には、私たちには見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるようです。

 私は、「樹木医さん」や植物園の先生が、まるで我が子をみるように植物たちに接しておられる姿、慈しんでおられる姿が印象的でした。だからかもしれませんが、そこには先生方の植物のことを見逃さず観察している姿があると思いました。いえ、植物というより、先生方は我が子に接しているように見えました。そこには、紛れもなく愛情を感じました。

 先生方は、植物のことを理解できるのだと思います。それは、日々植物たちを観察していること、それが愛に基づいた観察であること、すなわち植物たちの見えない部分を理解しようとされているのだと思います。

 私たち教師も気がつきたい。

 それは、教師が子どもたちを理解することと全く同じです。

 それは愛する我が子を理解することにおいても全く同じです。

 理解は、見えないところを理解すること。

 理解は、植物や子どもたちの困っていることに手を差し伸べるためにすることなのでしょう。

2年生担任 鎌田裕子