朝の放送の終わりに、「東日本大震災を受けて」の祈りを毎日するようになって、数ヶ月が過ぎ、この祈りは、わたしたちND小の子どもたちと教職員の生活の一部になっています。聖母月のミサにお捧げする祈りの手紙の中で、子どもたちの大半が、津波や地震で被害に遭い、今も苦しい状態にある人々のために、また、亡くなられた人々のために、マリア様にその癒しの取次ぎを願う気持ちを自分の言葉で精一杯書いていることからもうかがえます。子どもたちと一緒に手を合わせるとき、宮城県南三陸町の浜で、ワカメの箱詰めの作業を手伝わせてくださった漁師のおじさんの顔と言葉が思い浮かびます。浜から山まで、家の土台を残すのみの集落の跡、人の姿も声もない静寂を目の当たりにして言葉をなくした前夜。次の日、一日の作業が終わろうとしていたとき、浜から見上げる丘の上の家を指差して、「あそこまで、来たんだ(津波が)。なぜ、あの時、あいつは逃げなかったんかな。」と、つぶやくように親しい方の死を話されたことを。ワカメの話や冗談を交えての作業に終始していたその日、ボランティアを受け入れて下さった陽気なおじさんにおみやげのワカメを手渡していただきながら、返す言葉を見つけることができませんでした。震災でたくさんのものを失われた人々とわたしたちとの間の距離感。電気もあり、揺れもなく、3.11の前とほとんど変わらない日々を送るわたしたちが、「わすれず心に留め祈ること」以外に、もっと積極的に自分たちが向き合えるようなるには、どうしたらよいのだろうという思いを祈りのたびに胸をよぎるものの、わすれてしまう日常です。
 先週、受け持ちの国語の時間、図書室に行く機会があり、書棚をのぞいていると、「特別授業3.11 君たちはどう生きるか」(河出書房新社)というタイトルの本を見つけました。国語、理科、歴史、地理、政治、経済、保健など各分野から、中学生(14歳)を対象に今とこれからをどう生きるのかを語りかけている本でした。その中で、あさのあつこさんの国語「表現する力をつけてほしい」は、私にとって一つの示唆になるものでした。原発に関して最悪のシナリオを想像することができなかった私たち大人や、福島から来た子が放射能がうつると言われた話を例に、私たち大人の他者に対する想像力の欠如を挙げています。「言葉できちんと自分の思いを表現できる、他の人の話をきちんと耳を持って聞ける」ためには、「豊かな想像力」が要ります。3.11を回避して生きることはできない私たち、これからも何があるか分からない、ひとからみれば小さなことでも自分にとっては、大きな出来事を経験していくことになる子どもたちに自分の言葉、自分の表現ができるようなってほしいと強く訴えているところに私は、強く共感を覚えました。
 子どもたちと国語をともに学習していく中で、子どもたちが表現力をつけられるよう自分自身も学びたいと思います。自分たちの環境について学んでいく4年生の子どもたちが水やごみなどの身近なものからエネルギーとしての原子力にいたるまでの自分たちを取り巻く環境の学習を通して、自分の言葉で自分の意見を持てるよう、また、それをお互いに分かち合えることを目指すことができるよう支援していくことが、私にとって、3.11に向き合うことになるのかもしれません。

4年担任 寺島 智恵