今こそ、この手この足を

ノートルダム学院小学校 校長
シスターベアトリス 田中範子

 3・11と言えばすぐに頭に浮かぶ写真があります。大震災の2ヵ月後くらいでしたか、新聞で紹介された岩手県の5歳の女の子、昆愛海ちゃんのことです。両親が亡くなったことも知らずにパパやママに無心に手紙を書きながら途中で眠ってしまった写真が読売新聞に大きく掲載されたのを覚えておられる方も大勢いらっしゃるのではないかと思います。
 「ままへ いきているといいね おげんきですか おりがみとあやとりと ほんをよんでくれてありがと」 ※1
私は何度この愛海ちゃんの写真とお手紙を見ながら涙したことでしょう。津波が押し寄せる中わが子を離すまいと必死で抱きしめられたであろう母親の姿を想像すると今も胸が痛みます。小さなからだの愛海ちゃんだけが漁具に引っかかり助けられたという・・。
 人は人生の最期には苦しかったことよりも楽しかったことを思い出すものだと聞いたことがありますが、願わくは愛海ちゃんがママとの楽しかった思い出を語っているように、ママも5年間優しい心でかわいがり大切に育てたひとり娘と、あやとりや折り紙をしている情景を思い浮かべ笑いながら天国に召されてほしかった、否、そうに違いないと自分に言い聞かせています。
 悲しい新聞記事ではありましたが、別の見方をすれば、実はほんとうに幸せな女の子なのだとも思えます。漁師の家ですからこまかい仕事が沢山あったでしょうに、娘には限りない愛を注ぎ保育園から帰って来ると、折り紙や綾取りをして子どもの相手をし、夜はきっと添い寝をしながら大好きな絵本の読み聞かせをされていたのでしょう。
 津波で親と離れ離れになり不安とさびしさでいっぱいの愛海ちゃんのこの短い言葉、“いきているといいね おげんきですか”の中に母親はどこかに生きていて必ず自分のところに帰ってきてくれる、と信じきっているように思えます。折り紙や綾取りや本読みをしてくれるおかあさんにありがとう、と感謝の言葉さえ口にできるこの女の子はほんとうに幸せです。
 母親は最高の贈り物を遺産として娘に残したように思えます。一生涯親の恩を忘れることなく感謝し続けて生きられることでしょう。美しい衣服とか身を飾るアクセサリーなど物質的なものは何一つ残せませんでしたが、最も大切なものを残して逝かれたように思えます。またパパ宛の手紙も紹介されていました。
 「あわびとか うにとか たことか こんぶとか いろんなのおとてね」 ※2
 漁師の家に生まれた愛海ちゃんのこの名前は、きっとパパの海への夢や憧れからつけられたに違いありません。海の幸をおみやげに持って帰る父親は愛海ちゃんにとっては家族を守るたくましくて大好きなお父さんだったことでしょう。

 このような子どもたちがどれだけいるのでしょうか。せめて夏休みの間、ノートルダム山の家で合宿したり、大きなきれいなプールで放射能の心配をせずに思いっきり泳いだり出来ないものか、また家族を亡くした子どもたちに本校の保護者にスポンサー役を引き受けていただき、せめて一週間だけでもあたたかい家庭の経験をさせてあげられないものかと考えていた矢先、被災地訪問の旅に誘われて実際現地に行くことが出来ました。
 今回の最初の被災地訪問の旅が本校の4人の先生方と一緒であったことは実に大きな意味を持つものでした。先生方はすぐに行動に移すエネルギーもっておられたからです。私たち5人は無残なまでに壊れてしまった家々の跡を黙って歩きながら、実は同じことを考えていたのです。“京都に帰ったら何かしなければならない”と。
 私達は早速テレビ放送で全校生に映像を通して自分たちの体験を語りました。 “口は心にあふれることを語る”と聖書にもありますように、人は誰でも心に強く感じることがあるとじっとしてはいられなくなる存在のようです。
 先生方は教職員みんなに呼びかけ、遂に春休みに現地ボランティアに行くことが決まりました。同情の域を超えて現地の人の役に立つことをしようと行動を起こすことになったのです。


7万本の松並木が一瞬のうちに津波に呑み込まれてしまいましたがこの一本だけが奇跡的に残ったのです。今も人々の希望のしるしとなっています (高野教諭撮影)

“主よ 貧しい人や病んでいる人を助けるために
 私の手をお望みでしたら 今日私のこの手をお使いください
 主よ 友をほしがる人々を訪れるために
 私の足をお望みでしたら 私のこの足をお使いください”

 マザーテレサの祈りの言葉のように先生方は心と体を使って、人の役に立ちたいと願っておられるのです。

 (※1、※2 2011年5月10日読売新聞 朝刊の記事より引用させていただきました)

 

 

 

 

 

 

2011年度後期「父母の会会報」161号掲載
(2012年3月15日発行)