3月11日(水) わたしを育ててくれた学校環境
登録日:2015年3月11日/更新日:2015年3月11日
ノートルダム学院小学校に勤めて四十数年,意図せずに生ずる出来事が自分を育ててくれました。その出来事は,一言で言えば「出会い」と呼んでよいのでしょうか。「出会い」の語義は偶然に会うこと,初めて対面すること,急に直面することであるが,「出会い」とはそれ以上に重要な意味を携えるものとして人々に受け止められています。「あの人に出会って私は人生が変わった」とか,「あの人の講演を聞いて今があるのです」とか,「あの人に教えてもらってこの研究が今も続いているのです」とか,転機となるような出会いの場面が語られています。
出会いの対象は今まであったことのない人物が中心ですが,書物とか,特定の組織,風景など人以外のものも対象になることがあります。
今振り返ってみると自分を育ててくれた出会いとは何だったのだろうか。それは子どもであり,保護者であり,教師仲間であり,ノートルダム学院小学校の環境であることはいうまでもありません。
前述したように,一般に出会いと言えば,偶然に会った人の偉大さや影響の強さに注目しがちです。では,素晴らしい人と会ったすべての人に転機となるような出会いが生じるかといえば,そうとは限りません。つまり,出会いの対象者の特質もさることながら,会う当事者の方にも出会いを生じさせる何かがあると考えないと出会いは生じないのではないか,と私は考えています。つまり,影響力のある人をただ単に待ち望むだけで出会いは生じないのではないかということです。
教師は,さまざまな出会いによって育つことは間違いありません。ただし,形式的な固定的なものに縛られそれに教師が疑問を抱かないようなことでは出会いは生じません。
私は泳ぎの不得手な子どもたちとの交流を通して,多くの感動と多くの学びを獲得し,育てられました。そのことは,子どもの側から見れば,私は,出会いの対象者そのものでもあるのですが,逆の見方をすれば,対象者は子どもたちであると捉えることもできます。初心者水泳指導に参加する子どもは沢山います。彼らが持っている能力も千差万別です。その中で大変手のかかる子が毎年何人か現れます。A君,Bさんであったとしましょう。A君,Bさんを何とか泳がせてあげたい。そのためにはどうしたらよいのか?悩みます。私にとってはその対象者を正しい方向に導くべく闘いが始まり,その解決に向けた行動が始まります。もがき悩む課題を授かるのです。それは正に探究心の発揚であり,能力のエネルギー源泉となる基盤であると考えていいのではないでしょうか。
教師の出会いは多彩です。その中で平穏で充足感のある状態は少なく,疑問や不満,悩みの方が多いです。それらを乗り越えるために粘り強い探究心の営みを続けることが,自分をある状態から,他の状態に導く出会いを生み出すのではないか,と考えています。
つまり,出会う双方に学び合う姿勢と探究心を持つことが転機のある出会いを生み出すのではないかと思います。
2015年3月11日(水) NDダイアリー担当 三笠 正治
登録日:2015年3月11日/更新日:2015年3月11日